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カテゴリ:◆武道と空手

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押忍について!!!

押忍について

■和道人


私も、大学時代は、そうしていましたがたが、「オス」という挨拶の事です。和道会は、一般の人に対し威圧感を与えるという事で「ハイ」とか「こんにちわ」にかわりました。私もそのほうが良いと考えております。一般の社会では、無い挨拶なので慣れないと違和感を感じます。子供たちに、優しさとか思いやりを教える上では大事な事項と思いますので、一度ご検討されてはいかがでしょうか。ごめんなさい、変な事を言いまして。これからもよろしくお願いいたします。

■あごひげ

はいありがとうございます。
そういう意見は押忍を言う様になった思想的背景絡みで・・私もよく聞きます。ただ指導者の都合かも知れませんが子供たちにしっかり声を出させて挨拶、返事、氣合いを入れてやりたいと思うとき、ハイッよりもオスッ と言ってもらったほうが指導するほうも氣持ちが締まりやすいように思います。大会では挨拶の練習も オスッ でしましたので、和道の人たちがそういう教え方をしているのであれば今年からは オスっ を強制するような指導は大会の中ではしないようにします。協会系では当然のごとくオスッが当たり前なわけで、いまさら 返事も挨拶も ハイ に直せとはむしろ言えません。たしかに一般人には威圧的ですね。空手はオスッ、とむしろ社会通念上においてそのようになっていると思います。今まで習ってきたやり方で問題がなければどの流派のどのやり方でも私は問題はないと思われます。オスっでもハイでも、指導する側の捉え方次第。ハイッ、で十分に徹底できるから和道の世界ではそのようにして何も問題はないのでしょう。。
大事なことは、それこそ一般人から見れば暴力的に見える空手環境の排除ではないでしょうか。和道は四大流派の中でも最も紳士的な流派であると私も昔から思っています。野蛮、暴力的な流会派・・、大会の空氣から言っています。地域性もあります。宮城県なんか、県スポ少大会を見ると流会派別の質の悪さがよく見える大会でもあります。そういえば剣道の応援は拍手だけです。剣道はオリンピック化を避け武道精神に徹しているように思います。ヤクザかチンピラか分からないような親たち、そしてそういう親たちを環境において良しとする肩で風切る空手の指導者たち、そういう指導者が多いからこそ、ヤジ、罵声は多いわ、審判では平氣で暗黙の了解で旗の上げあいっこをしていたり。同じ流派の中でも権力、派閥争いが延々と続いていて、そういうところだからこそのセクハラ問題、横領問題なども次々に出やすい土壌と言えるでしょうか。。。
オスッについては子供たちを取り巻く環境整備として課題の一つではあります。有難うございました。今後も『教育空手』の追求にご指導をお願します。

■総師範 阿部

山形県でも押忍は余り使われておりませんが、お互いの挨拶には使われることがあります。ようは威圧的な使い方すると今日的に問題になるのでは? 競技空手と武道空手の違い? 白を黒といわれてもハイといわねばならない時代とは違うのでしょうか。 また押忍という言葉の意味を説明することも必要かも知れません。私自身、学生時代、押忍の世界で空手を学びはしたが、思うところあり会活動を始めてからは、押忍を強要しなかったが、宮城県の大会に始めて出さしてもらった時、皆、押忍の挨拶で圧倒され、会員から空心会も押忍を言おう、という声が出、数年続いたら使われなくなった。ということがあった。現在は各人の自由意思に任せているところです。
色んな人との関係の中で臨機応変に、水の流れの如く。構えなき構えとでも言うのか。自由でありたいと思います。ただし自由というのは、どうでも良いというのではない。礼儀礼節を重んじ、人格形成に努め求めることは大切である。それは心を作ることだが、表行「返事・態度等」よりは心行が大事に思うが、心を求めるに表行がいる。どちらも大切に思います。一方に偏ると無理が生じるような気もします。難しいですね。

■大阪の武田 - 2007/01/22(Mon) 12:37 No.440

私達の道場では「押忍について」道場内では大きな声で「オッス」と挨拶をしようと言っております。ただ時と場合によっては考えてみようとーー。
私は、道場生には次のように説明しております。
 「ここで道場でよく使う、オッスの挨拶について一寸説明をつけ加えます。
空手道場で使うオッスは漢字で「押忍」と書きます。私は色々な意味があると思っております。例えば「よろしくお願いします」「有難うございました」「ハイわかりました」「注意します」「苦しみに耐え頑張ります」「こんにちは」「おはようございます」「さようなら」「お気をつけて」「よく頑張ったなー」などいろいろな面で使用できますし我々もその都度理解できると思います。しかしながら、空手と関係の無い方には一寸無作法と思われるでしょう。時と場合を考えて、オッスと言わないで上記の例のような言葉を(普通の挨拶の仕方)使って下さい」

■押忍(オスッ)の必要性について
あごひげ

阿部総師範、そして大阪の武田先生、大変貴重なご意見ありがとうございます。
私も昨日から、この オスッ についていろいろ考えてみました。意味合い、捉え方、そして使い方についてです。意味合いについては、道場で子供たちにいつも説明しているのは、『忍耐を押し通すと書くから、がんばります!へこたれません!という意味なんだ。だから苦しいときもうれしい時も氣合いを入れたいときもみんな押忍!でいいんだよ!』と、です。
最終的にはこんなふうに思いつきました。やはりこれは、空手の原点ではないのかなあと思ったのです。空手の原点とは何か、沖縄での禁武政策で武器が使えなかった時代に我が身を守る手立てとして(中国伝来のものを基本に)作られ発展していった唐手(空手)。元々は武術であると。そして、唐手を色即是空空即是色の空から取って空手とし、我が国に最初に紹介、普及させた船越先生は空手に道を付けて人の道を若者たちに伝える手段として広めていこうとなされた。。つまり、これは完全なる日本国で生まれた日本の武道であり、武術、護身術を通り越して武士道、日本人古来の伝統文化を伝えるためのものでもあると私は思います。西洋のスポーツと並列に ハイ!ではちょっと空手に失礼なような氣がしますが、ただ、空手も完全なるスポーツ化、ポイント制に移り変わり本来の空手らしい極めの感覚表現でさえも希薄になってきているようで残念ではあります。ということで、空手といえば 押忍!の精神、私の道場ではどうしても崩したくないなあと思います。
 ハイッ、と言うときは口が開いています。オスッ、と言うと口が閉じて歯を食いしばる形になります。コートに入るときに・・・わざとらしく・・ゆっくり礼儀を深々と見せる、魅せるのはあれは何の意味があろうかと私はずーっと疑問に思っていました。コートに入ったら、形であればその時点で敵が四方八方にいるのにあんなにゆっくり礼をしていていいものかと。。まあ、これはスポーツ競技であり、美を競う芸術点なんだよ、きみぃぃぃ、というような声がどこからか聞こえてきそうではあります。
組手の試合では、ただ黙って礼をするよりは自分に喝!を入れるためにも相手をしっかり見据えて大きな声でオスッ、押忍!と言いたいものです。大きな声を出すことは30パーセントのエネルギーが増量するという研究結果も出ています。私は高校時代は重量挙げをしていましたが、何度声を出してもいいので自分に氣合いを入れる掛け声を出してバーベルに向かい、そして必ず氣合いとともに頭上にあげていました。テニスのプロ選手もボールを返すときに大きな声を出しています。私は、空手道が元々は武術、格闘技である以上は、まずは自分に喝を入れて取り組むことで、やる氣、根性、氣概が身についていくのではと考えます。特に基本組手では必ず当てていけと指導しています。もちろん自分よりも明らかに技術が下であったり自分よりも小さい子に当てるのは厳禁であり、怒ります。
押忍そのものはこのように、まずは自分自身の氣力向上になくてはならない一つの技であり、要素であり、自分に十分に氣が入った上で稽古をしっかり積み、成長し、将来は氣概の備わった大人となり、弱いものを助けたり、正しいと思ったことを声高に主張したりして社会に正しく貢献してほしいと願うものです。いろいろな考え、捉え方があっていいとは思いますが、空手の道の伝統を重んじ、よく噛み締めて真の相手への思いやりは自分自身の強さから回りに向けて発信していくことではないかと考えます。

■東京のむさし先輩より
※以前、先輩よりメールをいただいていました。
原文のまま上げさせていただきます。

・・・・・・
押忍
 押忍シリーズおもしろいですね。杉浦最高師範、中原会長はどういう説明をしてくれるのでしょうか?また、若い師範の先生方はどういう解釈をしているのか?知らないでオス、オスといっている道場生はどう思っているのか?
私が高校生の頃、あるきっかけで空手道場へ通いました。日本大学の師範、OBがやっている町道場でした。挨拶は「チワッ」といっており、学生のお兄さんに理由を聞くとこんにちはの省略だと説明を受けました。大学に入り、空手部(空手協会)にはいると早速「オッス」の挨拶の練習です。「おはようございます」を省略してオスというのかと思い、その頃の先輩に聞きますと、漢字では「押志」と書き、志を押し通すということであると教えられました。また、3年になり幹部になったとき、他校の空手部の幹部との話の中で「押忍」が正しいといわれました。

 一字一字は辞書には以下の通りです。
 押す・・さらに、確かめる(念を押す)
 あえてする(病を押して出席する)
忍ぶ・・人の目につかないように行動を押さえる
  我慢して耐える
           
いままでの私なりの解釈は
 押忍:忍びごころを押し通す
おごることなく、威張らず、出しゃばらず、ケンカをせず
こころは謙虚で、控えめで他人には気配り、心配りをし
寡黙で、我慢強く、忍耐力を養っていく

と、かってに解釈し「おすっ」といっております。押忍

■永遠のハタチ

人道的に間違っていることを「それも一つの意見だ!」とするのはさすがに抵抗がありますが今回の「押忍」談義のような展開は大賛成です。各人の「押忍」に対しての思い・・読んでいて清々しいです。

■まっちゃん
自分は、押忍!は止めません。
大切な精神!(武士道が込められているシンボルの言葉だと思います)
方言だってきつい言葉、有ります。それも使わないようにしなくてはいけないのでしょうか?いや!違います。その言葉には沢山の文化、時代、思いが託されています。
押忍!も同じだと思います。

■若奥様

うちの子は、稽古とか大会とか空手絡みの時は返事が『押忍』になっていましたね。ケッコウ・・目も真面目になって『押忍』と言う・・空手マジモードにスイッチ入った時は使う言葉ですね。あんま、ふざけたりオチャラケた場面では使い辛い言葉ではあるかもね。オチャラケて使いこなせるのはドリフの長さん『おぃ~~っすぅ』くらいか・・
暫く前になりますが、相撲の表彰を巡って・・大阪府知事が女性であると言うことで、女人禁制の土俵に女性が上がるか上がらないかって話題がありました。結局、土俵に上がることはなかったんですが。 男女同権ジェンダーフリーの世の中に流れてはいるけれど、誰に何を言われても古いだなんだ言われても、継承して行かなくてはなんない歴史・文化ってあっていいと思うし、有るべきだと思うんだよね。
ね!まっちゃん。

■大阪の武田

押忍の意味について、私なりに勝手に解釈し、使っておりましたが、「東京のむさしさん」の解釈が一番いいと思いました。

「東京のむさしさん」の解釈

いままでの私なりの解釈は
 押忍:忍びごころを押し通す
おごることなく、威張らず、出しゃばらず、ケンカをせず、こころは謙虚で、控えめで他人には気配り、心配りをし、寡黙で、我慢強く、忍耐力を養っていく

私は道場生に伝え、説明をして徹底していこうと思いました、有難うございました。

■あごひげ

押忍について、いいですねー。清々しいですねー。三十数年も先輩や先生への挨拶、応対に押忍を使ってきた一人としては実にうれしいです。皆さんもまた オスッ にそれぞれの思いがあって使っているということを知りました。まっちゃん、和道会内部の温度差なのか、または地域性なのか、ということだと思います。東北の和道の親分の方針だと聞いています。東北特有なのかどうか他見の和道の人にも聞きたいっすね。若奥様、思い出した、そうだね・・・ドリフ、いかりや長介さんの おい~っす て何十年も前だよたしか・・。(いつもありがとう)

今、東京のむさし先輩から来たメールに感動しました。
文章っていいですね。見つけて拾ってくる先輩はたいしたもんです。
オスッを大きく言う訓練をしておけば、社会に出てもハキハキと ハイッ と言える様に思います。ハイッ と言うときの目と オスッ て言う時の目の使い方、意味合いは少々違うように思います。武道、格闘技の氣合いの入った稽古には オスッ が一番 屁理屈抜きで理由や解釈を述べなくとも オスッ だけで分かるような氣がします。オスッ て、あらためて本当に素晴らしいと思いました。
武田先生の むさし先輩紹介文を読んでやっぱりなあ、と思いました。いい文章です、私も大切にしたいです。

押忍!!!  むさし先輩からのメール ↓

▲東京、むさし先輩メール

押忍(おす、おっす)とは、
主に空手道・剣道・柔道などの武道の関係者の間で使われる挨拶の一つ。 由来としては、戦前に京都に存在した武道専門学校(大日本武徳会が運営)の学生の間で生まれたもので、特に先輩が後輩に返礼する際に使われたものが発端という説が有力である。元々は「おはようございます」だったものが「おはよーっす」→「おわーす」→「おす」と縮まり、そこに「押して忍ぶ」(自我を抑え我慢する、の意)という言葉の漢字を当てた結果、現在の形になったのではないかと言われている。
一説では、佐賀・鍋島藩においては山本常朝の「葉隠」が武士道の基本とされ、藩校において厳しく躾が為されていた、若い青年武士たちは互いに励まし合う意味で、往来などで出会った際、押忍!と声を掛け合ったと言われている。応援団や武道家が使う押忍はこちらのほうの意味であり、友達同士でオスというのは前記のように「おはよう」などが縮まったものであると考えられる。
武士道からなぜ応援団などが使うようになったかは定かでないが、旧日本海軍などで使われていたこともあるようで、拓殖大学が最初に「押忍」を使った大学であるとの説もある。
現在では特に朝の挨拶に限らず、何かの問いかけに対する返事など、武道関係者に限らず一般に広く使われる言葉となっている。
☆出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

会津藩の教え
江戸時代、会津藩に日新館という藩校がありました。白虎隊も教えを受けていた藩校なのですが、ここに入る前の子弟に対して「什の掟」というのがありました。
そこにはこう書いてあります。
1つ、年長者の言うことに背(そむ)いてはなりませぬ
2つ、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
3つ、虚言を言うことはなりませぬ
4つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5つ、弱いものをいじめてはなりませぬ
6つ、戸外で物を食べてはなりませぬ
7つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
武士道精神に帰依している私には非常に納得の出来るものです。7つ目を除いて。
そして、これら7カ条の後は、こんな文句で結ばれます。
「ならぬことはならぬものです」
本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。
たいていの場合、説明など不要です。頭ごなしに押しつけてよい。
もちろん子供は、反発したり、後になって別の新しい価値観を見いだすかもしれません。
それはそれでよい。初めに何かの基準を与えないと、子供としては動きが取れないのです。

 藤原正彦著、新潮新書 「国家の品格」より

■ムサシ - 2007/01/26(Fri) 13:30 No.535

あごひげ先生、メール掲載ありがとうございました。
ご参考にと思い本から抜き出したもので、私の意見は入っておりませんので本日書き込みをさせて頂きます。
空手をスポーツ的にやることも、武道的にやることも両方必要であると思っております
 子供に空手を稽古させ、いろいろな試合で活躍させ、子供に自信を付けることは必要なことです。しかし余り目に見えない現代にもっと大切な、忍耐力つけることも重要だと思います。
(試合で負けても負けても頑張る子供、そして直ぐに切れない子供等、忍耐力をつけ我慢強い子に育ててやること)
宮本武蔵が「千日の稽古(けいこ)を鍛(たん)とし、万日の稽古を練(れん)とす」という言葉を残しています。武道は3年ほどで身体は鍛えられるが(技の世界)、30年練り磨かねば精神(道の世界)は創れないということではないかと思います。私の経験から社会に出たときに役立ったのは後者です。空手の精神(空手5訓)の本当の意味も判らずにいた学生時代に押忍の世界で知らないうちに押忍の精神が心の奥底に創られたのは秘められた宝であると思っております。社会へ出るといろいろなストレスがありました、それを乗り越えていく人間に育ててもらったのは、若い時代に押忍、押忍と挨拶をして空手部生活では、空手が強くなったことや、押忍の言葉ではなく、押忍の精神ではなかったかと思っております。終戦の玉音放送の始めに「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」という言葉があります。ある有名な先生が「忍びがたきを忍び、押さば押せの精神を創る」と言われていました。会津の什の掟の「ならぬことはならぬものです」はすばらしい言葉だと思います。
「本当に重要なことは、親や先生が幼いうちから押しつけないといけません。たいていの場合、説明など不要です。頭ごなしに押しつけてよい。もちろん子供は、反発したり、後になって別の新しい価値観を見いだすかもしれません。それはそれでよい。初めに何かの基準を与えないと、子供としては動きが取れないのです。」と「国家の品格」著者藤原先生が言っておられますが、子供は親の背中を見て育つという言葉もあります。「ならぬことはならぬものです」と教えるのは人格の出来た親、先生、指導者が言えば役立つものと考えます。
きちんとした空手の指導者が押忍の挨拶を教え、子供達に「ならぬことはならぬものです」を教えていけば、忍耐力のある子供が育てられると思います。きちんと起立して、教えを頂く先生の目を見て、両手を真っ直ぐきちんと身体に付けて、70度くらいのお辞儀をして、大きな声で「押忍」という。
 稽古の初めの「押忍」は
    押・・あえてする(病を押して出席する等に使用)
    忍・・こらえる。我慢する。
稽古の終わった後の「押忍」は
    押・・さらに、確かめる(念を押す)
忍・・人の目につかないように行動を押さえる(教えて頂いた空手を)
 通常の「押忍」は
空手5訓の精神での挨拶
*押忍の言葉は空手5訓が全て入っているのではと思う今日この頃です。軍隊でも敬礼がありますが、一般社会では真似をしても本当の敬礼はしていないと思います。オスッという言葉も空手の稽古(松濤館?)をするための言葉であり、意味は社会に出てから分かればよいと思います。
 30年の空手のブランクがあり、再度稽古を初めて8年目を迎えます。まだ先生方に稽古をつけてもらっている身ではありますが、「押忍」という挨拶をするたびに、人格完成に近づけのではと思い押忍に感謝しております。

■福島県本部@事務加藤

福島県本部@事務加藤です、失礼致します。
本部長にもお話を聞いたのですが、
やはり協会系は「押忍」というのはどなたかも書いていた通り
「しのびがたきことをたえ・・・・」です。
私はそれで良いと思っていますし、稽古を見ていてでちょっと
したことで指摘しても子供他たちは「押忍ありがとうござい
ます。」と返してくれるのが気持ちよいです。
どなたか、「会津士魂」を照会していただきました。
私も出身地が会津の猪苗代なんで話は染み付いております。
細かいことはありますが「会津士魂」で一番大切なのは
「ならぬことはならぬ」というこです。
それを曲解しないようお願いします。
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by kancho39 | 2007-01-23 17:00 | ◆武道と空手

●武道と● 日本空手協会の日月マークについて

■日月マーク

 空手道の「空手」は、元来東洋哲学の柱とも言うべき 禅の言葉からとったものです。空は「宇宙」、禅の言葉で言えば己を空しくする、すなわち無の境地を開くものです。無とはあらゆる欲望を断ち、立派な人間性、「他人に迷惑をかけず、強気を恐れず、権勢にこびず、財宝に目をくらませず、堂々と人生を生き抜く」ための修錬を積むことが空手道の真の目的と言えます。
 日本空手協会のマークの赤は太陽であり、白は月を型どったものです。「太陽と月」、これは宇宙であり、陽と陰の組み合わせです。昼があれば夜があるように、大自然の摂理(真理)を追及する日本空手協会は、太陽のごとく輝き、月のごとく慈愛に満ちた空手道の発展の将来を表現したものです。

※これは、高木正朝(故)副理事長の文かな?全国大会パンフレットに毎年掲載されています。


■あごひげ
私はこの紹介文がとても好きです。
JKA全国大会(七月一般、八月少年)の大会パンフレットを渡されるたびにこの文章を読んで感激し、さらに中原会長の挨拶で自分自身に(子供たちを指導する)氣概が注入されていったと思っています。

>「他人に迷惑をかけず、強気を恐れず、権勢にこびず、財宝に目をくらませず、堂々と人生を生き抜く」ための修錬を積むことが空手道の真の目的・・・

 時代は、『大人の時代から子供たちが空手を通して人間形成をはかる時代』への変革期を完全に通り過ぎています。ならば、会員(大半は子供たち)に求めるよりも前に、まずは大人の、指導者、親たち、私たち自らが己を律し、「他人に迷惑をかけず、強気を恐れず、権勢にこびず、財宝に目をくらませず、堂々と人生を生き抜く」 ための実践を重ねて行くことこそ、与えられた修業課題です。
 子供たちの教育的環境を空手の世界でも整えていくことでの社会還元、社会貢献、しいては世界の平和と安定に少しでもお役に立てるよう頑張りたい。。
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by kancho39 | 2006-08-15 21:50 | ◆武道と空手

●武道と1● むさし先輩より=術と道

※あごひげ宛てに、メールでいただきました。

感激、そしてガッテン!の文です。
日頃より、道とは何か、子供たちにこの道を通して何が伝えられるか、との思いで空手道の指導に携わっており、一つの答えがここにありました。先輩、ありがとうございました。。


■■■むさし先輩より

 明治神宮のホームページに稲葉稔という弓道の先生のとっても良い文章が見つかりましたので、送付致します。私がサラリーマン時代、学生時代の空手術(技)よりも空手道(道)が役立ち、営業における術の部分も磨かれ、戦い抜けたものと持っております。現在は会社にいたとき高給をもらい、地位で物が言えた時代と異なり、地位もお金も少ない人生の最後の部分で、空手道を中心に定年後の人生に於ける術を勉強しております。
 人格完成というのは難しいことですが良い言葉と思っております。子供達には道場訓の意味は判らないでも大人になって思い出せるよう空手五訓だけは覚えておいてもらいたいものです。別添文章に術と道の違いが見事に表現してあります。子供達は理解できませんが、父兄にこんな話をすべきだと思います。
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by kancho39 | 2006-05-21 16:55 | ◆武道と空手

●武道と2● はじめに

■術と道-1  はじめに
稲葉稔(弓道の先生)

武道で心身を鍛錬するといっても、武道とは何かが明らかでなければ、何をどのように鍛錬していくのかがわからないことになる。
 そもそも柔道、剣道、弓道、合気道等がそのまま武道と称されるのはなぜか。道とは何か、術とは何か--。そこに良き指針、指導が必要になってくるわけだが、各人自らが実技の錬磨を通じて、武道とは何かを把握しなければ修行に身が入らない。
 そこでここには、武道に志し、または興味を抱く読者諸君が、武道とはどのようなものかを考え、自分なりの武道観をもち、修行していくための指針となる材料を提供したい。まず、はじめにたたき台のつもりで私なりの武道の観念づけをしておきたい。
 私は、現在の武道を次のように理解している。
武道とは、人生の戦いの中で、己の道を探し出し、その道を実践して行く生き方をいう。
実践の中では、方法手段(戦闘術)の習熟と目的(高い志)達成の鍛錬が必要となってくるのは当然である。
そこで武術、武士道の言葉を入れて次のように言うこともできる。
武道とは、生死を決する緊張感をもって自らの武士道を探求し、武術を練磨して、実践して行く生き方をいう。
従って、武道の修行とは、<武術・術技>と<武士道・精神>の両者の修練・修養をさす。
では、術と道の関係はいかなるものであるか。
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by kancho39 | 2006-05-21 16:52 | ◆武道と空手

●武道と3● 術と道

■術と道-2  術と道
稲葉稔(弓道の先生)

 武士道(精神)を探求、実践するなかで武術(方法手段)が必要となってくるから、道を求める中から術へ入っていくのも一つのあり方といえる。
だが一般に武道場に入門してくる人々を見れば、武術の修練のなかから精神性を求めていく、つまり術から道へ入っていき、そこから術と道の関連を知って、両者相俟って向上していくというのが実際の進行というものであろう。
武道で、己の道を求めるとは、本性とか本心を知るということで、自らの精神的価値の探求をいい、日本の伝統的文化からいえば、武士道のなかに最もよくそれを見ることができる。
時代をさかのぼれば、もののふの道、つはものの道、弓矢の道など、いわば民族国家の非常事態に発揮された日本精神(大和魂)の具現者としての武人の生き方の歴史が指標となってくる。
だから日本の武人の精神と事跡を学び修めることが、日本人としての自らの本心、本性という深層心理を探求する時に最も重い意味をもつことになる。
そしてその道を実践するに際しては、事によっては戦い死することも辞さないと覚悟するのが武道の精神気概であろう。この生死を超越する気概をいかに養うか。
 ここに武術鍛錬の特色がある。しかし武術のみが、その気概を養うというのではない。運動スポーツであっても、そのほかのものごとであっても、その人間の精神探求によってそうした気概を鍛錬することが出来ることは言うまでもない。
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by kancho39 | 2006-05-21 16:51 | ◆武道と空手

●武道と5● 武道の探求

■術と道-4  武道の探求
稲葉稔(弓道の先生)

 現代の武道は、今日役立つ武術を必要とする。それには、既成の武術の修練から現代に生かせる戦いの技と理法を学び習得して、それを応用し将来へ備えていくわけだが、その為には時と状況の認識も不可欠のもので、現代の科学技術の知識の習得も欠かせないものになってくる。
方法手段(技術)の取捨選択は、いずれにせよ自らの人生の目的を何におくかによって、つまり精神の求め方によって変わってくる。
ましてや精神の実践となれば、総合的なもので、多様な選択修正をすることになり、結果的に一筋の道が出来てくるというものになってくる。
以上のことを踏まえて、現代に武道を探求するならば、次の三項目を挙げることができよう。
① 自らの高い精神的価値の探求 ―― 現代の武士道の実践
② 生死を超えた気概の養成と、自己の生き方を全うするための方法手段の選択、習得  ―― 武術の鍛錬、科学技術等の習得
③ 時代状況の把握 ―― 時事に通じ、国家社会の実践運動への参画
 未知の探求、気概の養成と方法手段の習得、時事に通じて社会運動に参画することなどは、闘う人間にはいずれの時代にも共通したものであったと思うが、これらを称して武道の修行実践ということが出来るだろう。
武道は、現実と乖離した精神性のみを論ずるものでもなく、状況をみながらその実現の手だてを追求していくことに本旨があって、単に体育スポーツの一術技というべきものではない。
したがって、武道の修練・修養は、実戦的緊張感を持って精神・技術両面において不断に工夫されねばならないというのが私の基本的な考え方である。
しかしながら武道の現状は、一般的にいって日本民族の高貴なる伝統文化から離れて、大和魂の精華としての武士道精神を忘れ、体育スポーツの一術技に堕している。
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by kancho39 | 2006-05-21 16:50 | ◆武道と空手

●武道と4● 現代の武道

■術と道-3  現代の武道
稲葉稔(弓道の先生)

 現代の武術は、昔の武士が実践の具として武術を鍛錬したのとは異なってきていて、より人格形成に重きがおかれている。
しかし、これによって生死を決することはなくなった時代にあるにせよ、その術技が生死勝敗を決する中で生まれて、今も実戦力を秘めていることに変わりはない。
その緊張感をもって鍛錬すれば、戦いの技と理を知り、生死を超越する気概を養うことはできると信ずる。
ここに現代社会においても武術を練磨する最も大きな意味があると思う(現代の各種の「武道」は、道の語が使われているが精神の探求を失ってしまった状態では、変質した”体育スポーツ化した武術 ”というべきかもしれない)。
 もちろん日常的に社会一般に見られる暴力沙汰は、昔とそう変わらず、武術はそのまま今の護身術としても役立つという面もある。
さらには形にあらわれず、目に見えにくい現代の高度に発達した戦いであっても、究極的には、肉体を持つ人間の意志と意志との戦いであり、敵を知り己を知りながら敵の戦力を砕き、戦意を挫くという基本原理は変わらないから、目に見えない、音に聞こえない、いわば形のない戦いの具体的基礎感覚が得られる武術の役割は、今日なお大きなものがあるといえる。
 しかも、あらたなる攻撃が生まれてあらたなる対応が求められる場合にせよ、その基礎をなすのは現在ある武術戦法である。
時代を超越した武術的天才といえども、その創造はそれまでの既成の武術の修練の中から生まれてくることは、武術の歴史を見ても明らかであろう。
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by kancho39 | 2006-05-21 16:50 | ◆武道と空手

●武道と6● 真の武道の回復

■術と道-5  真の武道の回復
稲葉稔(弓道の先生)

 現在の学校教育では、柔道、剣道、弓道等という体育武道の科目はあるが、日本精神修養を中核とした真の武道を教えるものにはなっていない。
一般社会で云々される武道についても術の語と同義に解されて、精神性が欠如しているスポーツ化された競技武術に偏している。
しかも社会文化面で海外へ普及して武道人口が増えているにせよ、武道がマーシャルアーツ(格闘技)と翻訳されているように、本来の武道からは遠ざかっていく方向に進んでいる。
それらは文化伝統の面からいえば神棚のない(つまり精神性の探求のない)体育館道場に端的にあらわれている。
 ここにおいて本来あるべき武道の姿を取り戻し、道と術の別と関連性を明らかにしつつ、両者の修養修練を積み重ねて、伝統文化としての武道を現代に回復していくべきであろう。そうしなければ、日本の文化伝統としての武道は死語になる。
 では、真の武道の姿を取り戻すにはどうするか ―― 。
 伝統文化の形をまず堅持し、日本の心を学び自らの心を覚醒して民族の魂を練る本来の武道にしていくことであろう。錬成は、民族の神々、武神への祈りに始まり、師弟、門人間に礼儀と信義があり、自らの道の探求があり、武術の鍛錬がある。
そして鍛錬の場である神々を祀る武道場は、清浄、静謐なる環境を保つというのが、最低限必要な条件であろう。
心を失い、さらに形まで失われれば、伝統の復活はいよいよ困難になる。
真の武道の姿を取り戻すには、いま残る武道の修行の形をまず堅持して、これ以上の衰退を止めること。あわせて現代に生きる武道を実践している指導者を探し求め、学ぶことであろう。
武が否定され、見失われ、しかも必要ないと一般に教育された時代状況の中での鍛錬の継続は、隆盛の中での探求とは異なった苦労や困難が伴う。敗戦、占領下において伝統的武道が否定される中でそうした苦難を経てきた指導者のもとで心身が鍛錬され、精神気概が養われ、術技が磨かれていけば、やがて現今の低迷を打破し、次なる文化を積極的に創造する民族の力が蓄えられていくことだろう。
明治神宮ホームページより
(明治神宮志誠館館長:稲葉稔)

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いなば・みのる =昭和19年東京生まれ。明治大学卒。高校卒業時に合気会系本部道場に入門、植芝盛平氏に親近した島田和繁氏と出会う。その縁で山口清吾氏に入門。
昭和40年春、鹿島神流国井道之氏に入門、最晩年の教えを受け、 歿後独自の武道探求をすすめる。神道思想家・葦津珍彦氏に師事し、日本思想、武士道を学ぶため神社新報記者となり、民族精神回復運動に関わる。48年10月至誠館の武道研修科師範となる。平成5年より館長。
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by kancho39 | 2006-05-21 16:49 | ◆武道と空手

一周年記念に、小澤先生よりお宝を寄贈されました!!!

■あごひげ  
神奈川県小澤師範(JEK東北地区本部長)より、中山先生著の『空手道 精神(こころ)と技法(わざ)』を寄贈いただきました!!!

NPO日本教育空手協会が設立一周年になりました。4月8日のお釈迦様の誕生日に認証され、4月15日の中山先生の命日に法務局に登記してスタートしたものの茨の道ではありました。けれども強運と言うか幸運も続き1年が過ぎてみると崩れるどころか審査会、各種大会、そして極め付きは山形県本部の設立と順調な一年を経過したと思います。宮城県と山形県に本部(4月16日発会式)が出来たことで両足がしっかり地に着き今ここに真の全国展開のためのスタート地点に立てた思いです。人生と同じように山あり谷ありですが、それらすべては今後の力になると思います。いろいろ親身になりお世話になった先生方、道場のスタッフ、親たち、一年間大変ありがとうございました。
 このたび、良き相談者であり支援者の神奈川県小澤先生より、一周年記念として、中山正敏先生著の、『空手道 精神(こころ)と技法(わざ)』をいただきました。数十年も前の限定販売、貴重な本ですが、ベスト空手版に精神編(89ページ)が加わった中山空手の真髄とも言える分厚いA4版390ページにわたる大作です。小澤先生がネットで競り落としたらしいですがかなり高額だったことでしょう・・。NPO法人日本教育空手協会が一年を経過し真のスタートを切るというときに松涛館流の聖典とも言うべき素晴らしい御本をいただき感謝感激です。今となってはプレミアの付く高額の書をいただき、小澤先生の期待に添うべく空手の道を通じて、社会貢献、世界に通じる人づくりを本氣になって進めていきたいと氣合いが入ります!空手道、精神と技法(こころとわざ)小澤先生大変ありがとうございました!!
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by kancho39 | 2006-05-03 22:14 | ◆武道と空手

●武道と● 「義をみてせざるは勇なきなり」

■東京、むさし先輩より

毎年、野武士の集団に襲われ困り果てた村の百姓達が、仕官の口を探している浪人達であふれている宿場へ、腹一杯の飯を報酬として浪人探しに出かける。浪人達が武術を鍛えたのは戦いに出て手柄を立てるためであり、百姓の味方をするためではなかった。百姓達の窮状はわかるが、どう考えても間尺に合わない。
あるサムライの顔が引き締まり、コメの飯が盛られた飯椀をじっとみつめ「よし、わかった。このメシ、おろそかに食わんぞ」と決心する。

このときのサムライの心を動かしたものは何か。「義を見てせざるは勇なきなり」の精神である。その戦いで仕官や特別な報酬がなくとも、義あれば命がけで助ける。そこには打算も損得もなく、あるのは弱きを助け強きをくじく、といった「義」の心のみであった。そして、このときの「義」をふるいたたせるもう一つの徳が「勇」である。

「義をみてせざるは勇なきなり」を実行するとなるとなんと難しいことか!
現代社会において、最も消滅したのは、この「勇」である。
子供たちの“いじめ”も、組織における不正や不祥事にしても、誰もが自らの保身を考え、言わねばならないこともいえず、“長いものにはまかれろ”という方便を利用してごまかしている。それを真正面から戦おうとする勇気がなくなっているからである。
世に悪がはこびるのはこのためである。そのために武士は、「義」を遂行するための精神修行と同時に、一方において武術を鍛え、それによってさらなる勇気と胆力を積むことを要求されたのだ。武士の教育が「文武両道」といわれるのはこのためである。

「7人のサムライ」より

■あごひげ
いいですね。私の場合はどうしても空手に当てはめて考えます。そう言えば仙台のG先輩はこんな感じかなあって思い出します。先輩は、一所懸命に稽古に来る人、たとえ数人しか来なくとも一所懸命にその人のためにと教えてくれる先輩だったなあと。私の場合はやはり人数をしつかり確保してできれば採算も取れるようにしたいって考えるけどG先輩はどこまでも男義の部分で動く人。。修空館道場の新築をしたとき構造設計をお願いした。で、いくらですかと言うと、紙代しか掛かってねえから要らない!とお金を取ってくれない。大きい道場だから金額も本当は高いだろうに・・、ということでJKA仙北大会の審判に来たときに無理無理(たったの)10万円を、別の先輩に手伝ってもらい渡した。。そのG先輩、小野寺の道場は俺が立てたんだー、って他人に自慢してくれているようだ。いいなーG先輩。義を見てせざるは勇なきなり。

※むさし先輩、ちょっと違うかも知れませんが私も義を見て動きたいと思いました。ありがとうございました。

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by kancho39 | 2006-04-28 23:49 | ◆武道と空手